私が小さいころは、両親の手を焼かせる子どもだった。よく口ごたえをし、危ないことをしたものだ。おかげで、何度げんこつや平手をもらっただろう。
 両親の一発には絶対的な権威があった。その前では、自分は悪いことをしたのだと、認めざるを得なかった。流した涙のほとんどは、どうすることもできない悔し涙だった。そのとき私が考えていたのは、反省ではなく「殴った親をどうしたら見返せるか」という当時の私なりの復讐方法だったと記憶している。幸い人の道を踏み外さずに今も生きているのは、私の復讐が成功したのか、躾のおかげか。
 大阪の高校で起こった体罰事件が、連日メディアを騒がせている。体罰も指導方法のひとつだという人もいるが、指導と躾は違う。相手も、園児や小学生ではない。物心がつき、もう一人前になろうかという高校生である。話せばわかる相手ではないのか。私たちは、体罰という前時代的な指導方法の存在について、いま一度問いなおす必要がある。

担当者:みっちゃん